2015年12月28日

何もしていない人だ


これは、ドイツのリヒテンベルク言葉とされる。
いつも忙しそうにしている人ほど、実は、意味のある事を何もやってない、
ということらしい。
18世紀の科学者が語ったこの言葉は、現代にも充分通じる一言でもある。
現代人は何かと忙しく、
いつに限らず、追われるような日々を過ごしているようなところがある。
”忙しい”と言えば、
いよいよ消費税8%がスタート。
31日は、あちらこちらを駆け回り、
消費税アップの前に買いダメをする姿が目立った。
これから先、どうなっていくのか、不安の船出というところだろう。
共同通信のニュースによると、
76%の人が、消費税の増懷孕便秘税後を懸念していると出ていた。
日本で消費税がスタートしたのは、平成元年の4月1日 。
税率は3%だった。
電卓に3%の税率が簡単に計算できるボタンがついたり、
スーパーや商店などは、税率が表記できるレジの買い替えが迫られるようになったりした。
平成9年の4月1日から5%。
あれから17年の歳月が流れたことになる。
無意識の中で、自動的に税率を上乗せして考える習慣がついていたが、
これからは意識して8%に変換していかなければならないようだ。
そして、来年の10月に10%になるという話もある。
そんな”忙しい話”はごめんだ。
  


Posted by 鴬 at 17:00Comments(0)

2015年12月07日

科学的な研究



たとえば、画家ムンクが幻視を見ていたとか、
ゴッホの狂気もよく知られているところ。
それらの狂気は、生まれた環境などから受けた精神的な抑鬱に因るものだという。
そして、精神的な抑鬱が大きければ大きいほど、
その創造性は豊かなものとなるようだ。

古代ローマ時代のセネカは思想家であり劇作家。
豊かな精神性の持ち主と言われている。
だけども、
おそらく、それが災いして、
かの悪名高い皇帝ネロの家庭教師に撰ばれる事になった。
だけども、
ネロに対して言って聞かせてもダメなものはダメ。
ローマに火をつけるなど、ネロの狂気の行動はエスカレートしていくばかり。

「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、
あとは師を殺害する以外に何も残っていない」
という言葉を残しているが、
実際、セネカはネロによって自殺させられることになる。
残念な形で、人生に終止符を打たれてしまった。

このネロ、この行動からして、
やはり、かなりの鬱屈した精神性を持ちぬしと言えそうだ。
「抑鬱や狂気が芸術の天才を生み出す」というのであれば、
ネロは、アーティストを目指すと、芸術の天才となっていた?  


Posted by 鴬 at 15:51Comments(0)

2015年11月07日

引越し準備に取




細かいものほどまだ使う・・・大きいものはすでに収納ケースに納まっているし・・・じわじわ片付けていくしかな状況の中、ようやく部屋が殺風景になるまでになりました(笑)高校を卒業し上京してきてから今までの出会いの中で、もしかしたらもう会えなくなる人もいるかもしれないと思い.

「今日はこの人と 明日はこの人と」短い時間の残された期間の中で色んな人と会って・出掛けて・食事して・・・ここに来て季節や気候の変わり目もあり、MAX落ち着かない状況のよっくんを連れては結構しんどいものがありますが・・・忙しい中にも時間を無駄にすることなく、みんなに引越しの挨拶ができました。今はメールやフェイスブックやLINEなどもあるので、ひょんなことで昔の繋がりが再会することもありますし、離れてしまった友達ともいつでもコミュニケーションが取れます。それでも長い人生を歩んでいく中で、お互いに遠ざかったりもするわけです。

そんな当然の予測も出来るので、やっぱり引越しすることでの“今回の別れ”はその時その時で寂しいものがあります。出会いがあっての別れがあって、それが人生だと思いますので一期一会の出会いや別れを適当にやり過ごすわけにはいきません。桜の蕾の膨らみが増す日々に、これほど寂しいと感じたことはこれまでにあったかな・・・
人生の半分近くの思い出が、この東京に詰っています。
最後まで“都会人”にはなれなかったけど(笑)、私らしく過ごせてこれたのだと色んなことを感じます。  


Posted by 鴬 at 18:46Comments(0)

2015年11月06日

完全凌駕するくらい


ここぞというときは前へ出てガンガンタックルを決め、マコウ、リードらが接点で働く。アタックに関しては、経過を記す中で前半最後のミルナースカッダーのトライに至る過程を絶賛した。

組織防御が発達を遂げる今、その上をいく攻撃力を持っているのが素晴らしい。上質なアタックは豊富な運動量と正確な判断力、パススキルの上に築かれたもの。アタックムーヴがこのレベルに達するか、フィジカルやセットピースがオールブラックスを、桁外れに強くならないことには頂点には立てない――という命題を他国に突きつけた優勝ではなかったか。

ゲームを支配したベースには、ノヌのセンタークラッシュ、あるいはFWの縦により、ピッチ中央で前へ出てアタック有利の局面を作り続けたことが挙げられる。防御を内へ寄せるお膳立てができるシーンは案外多く、外にできたオーバーラップをいかに攻略するかがこの試合の一番のポイントだったような気がする。ワラビーズにブレイクダウンで粘られた分、トライラッシュとはいかなかったけれども。あとは、いつものごとく、キックカウンターやターンオーバーといったアンストラクチャーの局面をいかに制するか。MOMにはカーターが選ばれた。21×17とされて乱戦ムードが漂い始めたあと、流れを自軍へ再び引き寄せるDG、ロングPGは値千金。妥当であろう。大会全体を通じた印象は、とにかくチームが成熟していたということ。キャプテンのマコウ、カーター、ノヌ、C・スミス、リード……前回大会の主力が、今回も変わらぬパフォーマンスでゲームを引き締めていた。

名前を上げ始めるとキリがないが、レタリックの質を伴ったハードワークの数々にも唸った。この試合の先発15人が大会ベストフィフティーンでもおかしくない中、個人的にMVPに推したいのはレタリックである。  


Posted by 鴬 at 15:16Comments(0)

2015年10月29日

真夏の昼空の向こう

体調はよくなっても、呆然自失という新たな枠組みは、はたして薬の副作用によるものなのか、わたしちゃん自身の新たなキャパオーバーサインなのか。完全には治らなくったっていいと、はじめからおもっている。

なんとなく、なくしたくないのだ。わたしは、このなくしたくない自分を、絶対的にまもってほしかった。なんて、荷が重いか。この頃、思考回路が1年前に逆戻りしはじめている。ふいに、泣きそうな心持ちになって、あわててしまうね。どうしてどうしてどうしてどうして、どうして。

あきらめてしまえよ、そう何度も言い聞かせたはずなのに。ひとふたり、たましいふたつ、うつわにこ、相容れやしない。ふたつがひとつには成りえない。
もやに消されて、富士山は稜線も見えなかったのに。今夜は once in a blue moon だって。わたしちゃんてね、晴れ間女なのよ。

お惣菜屋さんの山盛りおかずも売り切れて、Close の文字が傾くガラス越し。
仰げば、お月さまが坂道の少し先をつねに照らす、歩いていく。
わたしちゃんは、あれも欲しい。  


Posted by 鴬 at 12:31Comments(0)

2015年10月08日

繰り返すがこれは

作者自身の、生々しい就活体験を元にしてあるのだろう、
現代を生きる若者たちの、苦しさや心許なさが、
えぐるように描かれてあった。ここ数年来の就職活動生たちは、
市場原理資本主義経済社会の、最大の犠牲者といえるだろう。

あまりにも狭き門に向って、
友人さえも、ライバルどころか、
食うか食われるかの、情け容赦ない“敵”と化して、
足を引っ張り合い、陰で中傷し合い、
面罵し合い、潰し合う世界。

異常で、恐ろしい社会だ。それが、決して妄想ではなく、現実化しているのだ。
社会に、もし健全さが残っていれば、
学生たち寶寶推車に対し、その能力や才能の方向にふさわしい、
生き場所の門戸を、必ずどこか開けるはずなのに!

現代日本社会に、なぜそれができないかと言えば、
  生き場所 = 地位 = 稼ぎ
のシステムが固定されているからだろう。

そのため、生き場所を得るために、
過当(もしくは不当)な競争が生じる。
  


Posted by 鴬 at 16:06Comments(0)

2015年08月27日

總會想起往日的美好與快樂


康泰自由行似乎極為平淡,人皆會度過,只是過程與思維存在方式有異而已。中國夜節日也有許多種,除夕、重陽、中秋、清明等,幾乎夜都具有一個意味,一種情感,或者一片生活。如果說生活為白晝與暗夜鑄成,我以為,夜是最珍貴而有益處的。

康泰自由行可以有許多種身份,同時是人們休養生息的時刻,有些人愛它的祥和、有些人喜歡其浪漫、有的人重視安靜,有的,卻在乎它的藝術。自然,惱它常常有的,長夜漫漫,遭受災難、流離失所的人一定在鄙視與咒罵它的。可是,無論變幻它多少回,用多少時光也換不來它唯一的、充滿人性的、非城市機制的、生活的碎片。談起夜,理解並懂夜的人,自然有許多的。與它和在青春藝術上似乎產生多餘感。然而,這種青春藝術在城市裏到是存在,與鄉村之間,可能沒太多緣分。似乎在城市裏呆久了,有種情調,又不可變幻地錯位鄉土本性,所以,讓本是鄉下人的我感受到,微微不自在。

青春miris spa好唔好是理想主義與浪漫主義的收容所,更是金錢與地位的先鋒前沿。似乎沒有青春藝術的存在,不伴隨著仍性與荒誕,或者是執念與木訥。青春藝術是不可分割的,很少人把他們連在一起用,我冒了險試試這種苦惱。如果,從不懂事到成熟是一個成長與應付的過程,那麼生命的位置將要重新定位,心靈的美會在變換中不知所以。人處在落難艱難的時刻,情感的寄託,會在青春賦予精神的角落裏散發光芒,那是自信,是生活的嘗試,更是自我的提升。然而,這並不代表成功,儘管成功不是目的。一個人不可以總是為目的而活著,但卻不可以為活著而目的。這種去尋找生存而忘記生存的愚昧,正是兩種文明的碰撞產物,鄉村與淳樸共存,喧囂與安穩同在。如果要分出生活的話,那麼真實的藝術,卻不一定要靜得極。

夜是一個很有趣的生活的片段,人們可以在這時思考一些白晝不曾思考而忽略的東西,也可以什麼也不做,只是看看這夜,屬於自我,屬於生活,自然也屬於這個世界。如果城市與鄉村真的要尋找某種距離,在未來的二十一世紀,將是一種摸索與創造。儘管這個過程是那樣的長遠,鄉下人還是鄉下人,城市裏還是城市裏。這樣去看待一個暫時無法改變的傳統文明與現代文明的碰撞,盡是衝突,自然也有和諧與調和的。  


Posted by 鴬 at 11:56Comments(0)